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世界は、あなたの感性と個性を待ち望んでいます。

「愚かな役者」とは、知識のない役者ではないのです。「自己過信している役者」こそ「愚かな役者」なのです。

「自己過信」とは?

自らの表現限界に気づかずに、その能力を過信して「何でもできる」と勘違いしていること。

「自己懐疑の精神」を持たず正しさを所有できると思っている。このような愚かな役者の正しさの根拠は何かと言えば「数が多い」ことでしかないのです。要するに「自己過信」する役者は周りを巻き込んでいき仲間を増やして「大衆化」していくのです。役者には2種類あります。組織に属する役者と属さない役者です。組織に属する役者を劇団員と言います。属さない役者は、フリーの役者など様々に肩書きをつけてられます。劇団員とは、「自分が意味のある存在として位置づけられてる拠所である場所がある人間」なのです。しかし、組織に属さない(フリー)役者は根無し草的存在で、それは「自分が意味のある存在として位置づけられる拠所のような場所がない人間」なのです。

ここで問題は、組織に属さないと、自分が依って立つ場所がなく誰が誰なのか区別もつかないように見えてきてしまったり、分からなくなってきたりするのです。それは個性が失われてきてしまうからです。組織に属する役者は自由であり、属さない役者は放置されている違いが上記の様に個性を失っていく様に陥易くするのです。孤独である為、自分を管理することが自信につながり、強がる事で「自己過信」に繋がり「愚かさ」を現してしまうのです。しかし、組織に属する役者も、組織によって「身体の規律化」で「個性の剥奪」を招かれてしまうことが気づかないうちに行われてしまうのです。戦後の日本の教育の元に育成されてきた子供達が大人となりアートの世界で同じことを行っていたのです。それは何かと言うと、「役者はこうである」と言う「平均的な役者」を育成してきてしまった。それが未だに多く残っているのです。

役者がもつ感性や個性は、規律を重要視する組織にとっては邪魔なものでしかない。そういうものを奪い去っていくことが利己的な考えの劇団や養成所、専門学校の命題なのです。「うちの役者はこうである」=「みんな同じ役者である」これで安心感を得るのです。人間は同じモノはいないのです。生まれて育てられた「心の状況」と「身体の状況」と「環境の状況」はまったく違うのです。感性も個性も違って当たり前であり、それを活かせてこその役者なのです。

賢い役者は、知を完成することができず過ちやほころびがいかに多いのかを認識しているのです。そして、人の話を聴くことができるのです。これは、観察能力のひとつです。この観察能力を養うには、Hospitalityがなければいけません。このHospitalityが矜恤の心を育てるのです。だから傾聴ができ、訊くことができるのです。平均てきな役者にはこの能力が育成されていないのです。では組織に属ずるのがよいのか?属さないの方がよいのか?そんな疑問が生じてきます。その答えは、組織に属して、その組織を利己的ではなく利他的な組織に変えていける個性的な役者になる事が一番良いのだと強く言います。あなたが組織に属さない理由は「自由」でありたいからではなく、他に理由があるからではないですか?ただいえるのは愚かな役者にはならないでください。世界はあなたの感性と個性を待ち望んでいます。