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「百足丸~色糸紬城のちちゆ~」稽古が始まりました。

更新日:2020年1月11日


稽古始まりは少しの緊張に包まれ、なんとなく同窓会の様な雰囲気でした。他劇団と芝居創りが少し違うので、戸惑いも出てくるだろうなと思いながら、軽く本読みなどを2回行いました。それぞれの個性が垣間見れたかなと感じました。これから色んなことを吸収しながら成長していくんだなと感じました。役者の成長は目の前の舞台本番ではみれないものです。実は目の前の次の本番舞台で成長ぶりは観れるものなのです。なので、今回の成長は今後の個々人の活動の中でみることができるんだなと思うのです。

今回の稽古でも言ったのですが、きっと千秋楽、打ち上げでも言うかもしれません。個々人の「自由演技」と言う言葉なのですが、意外に理解できる様で「してるつもり」になってしまうのです。個々人の自由な演技とは一体どんなことなのだろうか?

「自由=役者の自由」とは、制約がない状態なのです。しかし、制約がない状態がないだけでは自由ではありません。そもそも全く制約がないことなどありえないのです。

「自由=役者の自由」とは、与えられている条件のもとで、その条件に従って自分の力をうまく発揮できることなのです。これを理解しておかなければ、自由だから何でもしてもいいとか、なんでもやれるという自由ではない放置状態になってしまうのです。

だからと言って演出家の権力で強要、強制してしまうのは、これは「演出家の支配」となってしまうのです。しかし、現代では、演出家が横暴になり、役者は演出に応えなくてはと昔ながらの脅迫観念が根付いて若い役者に伝染してしまっているところがあるのです。

時代は流れるのです。その流れの中で人も変わっていくのです。なので、演出の仕方や役者の育成の仕方も変わって行かなければなりません。最近は演劇講師などと言う名前で役者を育てる方々が現れてきましたが、それは時代の流れの中で生まれてきた新しい立場の人なのです。良し悪しは分かりませんが、「愚かな人」にならないで真摯に役者の育成を行ってほしいと強く思うのです。序に書いておきますが、役者の育成に必要な、育成する側の人の心は「矜恤」なのです。これがないと「愚かな人」なのです。


役者は与えられた役に「矜恤の心」を持たなければ自由であってもお客に伝えられないのです。

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